● 人は同じ精神レベルの人とつき合おうとするものです
朱に交われば赤くなる。
あまり良い例えには使われないようです。
人の心は純粋無垢であればあるほど、出会う人、
つき合う人によってどのような色にでも染まりやすく、
特に悪しき魂にはいとも容易に染められてしまい、
一旦そうされてしまったら、
なかなか元には戻れないことをいう場合が多いからです。
もっとも、人の心はいつまでも無垢のままではいられません。
それでなくとも人の心は移ろいやすいのですから。
その移ろいやすさゆえに裏切りが生じるのは、
最終的には己がかわいいからにほかならず、
これは人としての性ではなく、
人もまた動物であるがゆえの性であるからです。
今から掲げる例は、かつてボクの塾に実在した子どもさんのお話です。
仮にS君としましょう。
ちょっと小説風に書いてみました。
Sは同学年の塾生全員から笑われた。
「お前、絶対に変だ。」
Sには理由が分からなかった。
ある日突然、
自分が到達しているよりもはるか高レベルにある高校へ行きたいと言い出した。
中学3年生の11月中頃のことである。
なんでも、友人に誘われて、その私立高校の説明会に行き、
校長先生の話に感激したのがその主たる理由だった。
「世の中にはあまりにもニセモノが多すぎる・・・。」
校長の第一声を聞いた瞬間、Sは驚かざるを得なかった。
(いつか、どこかで同じようなことを聞いたことがある。
はて、いつ、どこで・・・?)
彼の脳裏での過去をたどる作業と併行して、
校長の話は予定通りにたゆまずに進められていく。
不思議なことに、その話が進むほどに
Sの不確かで断片的なはずの記憶が次々とよみがえり、
いつの間にか確実で一貫した記憶へと変わっていることに気づかずにはいられず、
そのことが更にSの心をかき立てた。
やがて、その記憶の連鎖は私の存在へとたどり着いたのだそうだ。
「何で先生の話と、今日の校長先生との話が合ったんでしょうね?」
「それはね、ボクがその学校の卒業生だからです。
校長先生、そんなことおっしゃっていたんだ・・・。」
説明会での昂奮がまだ冷めぬ状態で塾にやってきたときのSの心が、
ここで明確に決定づけられることとなった。
ただ、問題は山積している。偏差値が49しかないS。
それも11月中旬に一念発起したとはいえ、
たった2か月半しか期間がない条件で、
偏差値を62以上に引き上げねばならないのだから。
Sの「苦行」は、私から偏差値62以上である
受験生の英語の思考レベルをまざまざと見せつけられるところから始まった。
英語の長文問題を解く上でSにとっては命綱であった和英辞書を、
私から取り上げられた。
40行の英文を3分で読み大意をつかむ作業をさせられた。
1週間では到底こなせぬ量で、
しかもSの思考レベルではかなり無理のある課題を2回繰り返せという命令が、
私から下される。
ミスを2回繰り返した瞬間に、私から檄が飛ばされる。
このようなことが連日、日付が変わる頃まで繰り返された。
私はSを試していた。
私の無理難題の連続をどこまで受け入れられるか、
そしてどこで音を上げるか。
結局、Sは、音を上げなかった。それどころか、
私が次々と発した命令を無理難題とはとらえずに、
当然のことのようにさえ思っていたのだそうだ。
久々に骨太の生徒に出会った。
おそらく10年に1人。
どれだけ振り払おうとも食らいついてくる。
そのときの痛みは最高に心地よかった。
教師冥利に尽きる子とは、きっとこういうような子をいうのだろう。
私にそう思わせるには充分すぎた。
年明け早々にSが発した言葉に、
精神の急速な成長を遂げていることを思わせた。
「先生、やっぱり、オレ、おかしかったんですね。
今になったら笑われた理由が分かります。」
当時(といってもわずか数か月前のことなのだけれど)Sは、
その日一日が楽しければそれでいいのだという感覚で生きていたそうだ。
それゆえに、その中学校では「やんちゃ」グループに属していた。
勉強のことなんぞはどこ吹く風。
公園のホームレスの人たちに「グループ」で徒党を組んでは
いらぬことをし、相手を怒らせては一目散に逃げるという
低次元の行為を繰り返していた。
私の塾生に笑われたのは、まさにこの話をSがした直後だった。
理由は分からないが
世間一般の常識からはかなり逸脱しているのではないかという
ほのかな己への疑いが芽生えた瞬間でもあったらしく、
それからずっとSの心の奥底でひっかかっていたのだ。
「今でもその子たちと遊んでいるの?」
「いいえ。今は自分よりも、もっと勉強の出来る人と話すようになっています。」
「そうだろうね。いやなに、簡単なこと。
君の話し方も、話す内容も、この2か月でずいぶんと変わったからね。
おそらく、当時の連中との交流はもうないのだろうとは思っていたよ。」
「え? そんなこと、すぐに分かるんですか?」
「そんな節穴教師じゃないよ。」
私が吹っ掛ける無理難題を期限内に解決するために
必死の想いで課題を解くものの、
自力では解決できないところに何度もぶち当たる。
しかし私には教えを請うことはできない。
いや、Sが尋ねてくれば私は迷わずに教えるつもりで
手薬煉(てぐすね)を引いて待っていた。
だが、一度たりとも尋ねてきたことがないのは、
Sにも意地があったのだろう。
それとともに、
Sの直線的な性格が彼に自ずと
私の所へは尋ねては行けないと思わせたということが、
後日になって明らかとなるのだが、
それにしても、どこに解決の糸口を見いだしていたのだろうか。
「オレより賢いのが周囲に10人くらいいますから、
その連中に教えてもらっていました。」
この日々がSを変えた。いや、正しくは、Sが変わったから
話す相手、つき合う相手が変わったのだ。
それと共に以前の「やんちゃ」グループとも話をしなくなった。
やがてSの目には過ぎゆく日々を享楽のみにうつつをぬかす連中が
ちっぽけな存在に見え始め、徐々に自然的にではあるが
確実に彼らとの交流はなくなり、
代わって、自分よりも高い学力ステージに立つ者たちが、
Sの仲間になっていった。
Sはそのことで大きく変化する己(おの)が心と
周囲の環境を自らで体感したのである。
それと共に急速に変貌してゆくSを驚愕の目で見る周囲の存在があったに違いない。
そのあからさまな空気の変化はSの変貌速度に拍車をかけ、
誰もが認めざるを得ないステージに立つことになったのである。
聞けば、周囲の10人は学年上位10位を占める者たちであり、
自分はそのグループの最下位にいるのだろうと己で予想していた。
「これで君も一流になったね。」
「そうなんですか?」
Sは、満面の笑みで照れた。
「先生、S君、合格しますかね?」
と問うスタッフに、逆に私から尋ねてみた。
「君なら彼の合格率を何%にする?」
「五分五分・・・、いや、六四ですか。」
「ふぅん。ボクは七三かな。」
「え? そんなにも合格率が高いんですか?」
「だって、あいつ、迷いがないからね。落ちる顔してないよ。」
本気で頑張った受験生なら、
年が明けた瞬間には次のステージの学生の顔になるものだ。
小学生なら中学生らしくなり、
中学生なら高校生の表情が出てくる。
逆にそのようにならなければ確実に失敗する。
入試とはそういうものだ。
受験生の精神の組み上げ方を試すことなのだ。
その試練は生半可な洗礼には容赦しない。
え~・・・いかがでしたか?
小説風のタッチで書いたとはいえ、日頃しないことをすると疲れます。はい。
それはともかく、S君は見事に合格しました。
この生徒はある意味では特殊な例かもしれませんが、
10年に1度はこういう子どもさんに出会うものです。
ボクがこの場所で開塾して今年で20年目を迎えるのですが、
毎年少なからずS君には及ばずとも、
語り草になるような子は存在します。
「朱に交われば赤くなる」は本当です。
あなたに最も強い影響を与えているのは友達であり、
あなたもまた友達として相手に与えているのです。
20年も塾を続けていると、
友達によって善くも悪くも変わってゆく子どもさんを
たくさん見ることになります。
「ウチの子、友達づき合いが悪いのかしら?」という
ご相談を親御様からお受けすることも少なくありませんが、
無理に引き離すことはできませんし、
そうしようとすればするほど逆のことが起きてしまいます。
「何であんな子とウチの子が友達なの?」
これは、ウチの子があんな子と友達になったばかりに
悪くなったのだと親御様が嘆き悩まれる代表的な例ですが、
私からすれば、いつまでわが子本意でよそ様の子どもさんを
見下げていらっしゃるのですかと申し上げたいくらいです。
なぜなら、人は自分と同格のステージにいる人としかつき合おうとしないからです。
極端な話、享楽の日々をむさぼっている人が、
日本の明日を語る人とつき合いますか?
なぜなら、第一、話が全くかみ合わないではありませんか。
つき合うということは互いに相手からの何らかの刺激を受けるのです。
その刺激の中味は、大抵の場合、共通事のはずです。
だから話がかみ合い愉快を感じる。
逆にそのように感じない、あるいは不愉快を感じる場合は、
知人の紹介で義理が絡むとしても、1回だけ会ってそれで終わりのはずです。
つまり、人は同じレベルの人とつき合おうとするということなのです。
毎日の挨拶を交わすからといって
おつき合いをしているとは言わないし言えないのと同じく、
人は、毎日の挨拶程度の出会いならいくらでもしているけれど、
そこからの「おつき合い」となると、
同じレベルの人としかしようとしないのが大抵の展開です。
ですから、「なんであんな子と・・・」と
わが子がつき合っている友達に対してお感じになったときは、
実はわが子もまた「あんな子」と同じ精神レベルであるということです。
「成功を望むなら成功者とつき合いなさい。」
「学力向上を望むなら、学力向上を目指して頑張っている人とつき合いなさい。」とは、
私が子どもたちに度々言ってきたことです。