Capa!~キャパビリティ~
Capabirity~将来性を秘めた素質~

考えずに、文章が噴き出てきた!

6月 4th, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

腰痛になって半年間苦しめられた。

その原因は、腰にあらず。体型にあらず。歩き方にあらず。

重たいものを持ったわけでもなくば、座り方や姿勢が悪かったわけでもなく、

冷えも、食生活も、勿論、体の奥底に潜めば限りなく恐ろしくなる病巣でもなかった。

 

怒り。

 

それが腰痛の原因だった。

信じるか否かは、あなた次第。

「腰痛は<怒り>である」という書物を読んでいて、

終盤にさしかかったとき、ボクの怒りの正体がはっきりと見えた!

その瞬間、頭の中に文章が噴きでてきた。

目の前にあったメモ用紙に走り書くこと20分。

ほとんど何の迷いもなく、巨大な流れがちっぽけな堤防を砕くように、

とにかく、本当に巨大な流れとなって、噴出した。

その流れの行く末を知るは、その流れ自身。

そんな劇的な体験だった。

 

私は塾人。

文章中の「塾」「保護者」「子ども」の部分を入れ替えると、

あなたの想いと重なるのではないかと思えてなりません。

いいえ、重ならずとも構いません。

あなたのどこかが「ビビッ!」と感じてくださるのではないか、

周囲からは、「ここまで書いていいの?」と言われたけれど、

構わない。

6年間の精神格闘の末に、たどり着いたものだから。

よろしければ、お読み下さい。

 

6年間の精神格闘の末に・・・ http://kuso-oyaji.kitto-dekiru19.com/?page_id=36

(塾説「木洩れ日」・平川塾のちょっとシビアなブログより)

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ゆっくり急ごう

4月 18th, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

大阪には、このような言葉がある。
 
あわてモンのグズ。
 
あたふたと慌てふためいて行動をしている割には
忘れ物や取り違えが多く、
また初めからやり直さねばならなくなり、
かえって余計な手間と時間がかかることに気づかず、
しかも同じことを繰り返すという学習能力の低い者のことを、
「どないも こないも どんならんモン」と怒り混じりに嘆きつつ、
「あわてモンのグズ」と称することがある。
 
最近は入学式と始業式を同時に済ませ、
翌日からいきなり授業に突入する学校も
少ないくないと聞く。
 
その割に、授業内容も濃くて深いのかと伺えば、
実態は、真逆に近い。
 
入学式の日はそれだけで済ませ、
始業式の日も同じくし、
その翌日からゆったりと授業を始めたのは、
今から40年も前の話か。
いや、
10年前までは、確かそうだったはずという記憶がある。
 
10年前までは、世の中のコマはもっと大きかった。
それとともに、人もまた。もっと大きな器を持っていたように思う。
 
大きいがゆえに、初めはゆったりとしか回らぬが、
一度、遠心力がつけば、
静かだが勢いよく回り続け、しかも長く持続した。
 
効率優先、低リスクか何かは知らぬが、
世の中のコマの大きさは限りなく小さくなり、
それとともに、人の心の器までが小さくなってしまった。
 
少しのことですら許されなくなり、
その割には自分の言動には呆れるくらいに甘い。

他人の非の指摘や批判は得意だが、
こと自分となると非常識きわまりなく、
そのことを自覚しながらも一向に認めようとしないばかりか、
追いつめられると屁理屈をこねまわして、まんまと逃げる。
 
小さいコマは、それゆえに小回りが利くし、
初めから勢いよく回る。
しかし、すぐに回転力は落ち、止まってしまう。

止まってしまうたびに、慌てふためいて、
また回しなおさねばならない。

回しなおすたびに、コマの小ささを言い訳にする。
ずいぶんとウルサイではないか。

止まってしまうたびに、
おのれの立場をまもるための、
全勢力を費やした言い訳を吐き出しながら、
コマを回しなおすことにだけ気を取られ、
肝心の部分はわずかしか出来ないでいる。
 
まったくの役たたずめ・・・!
 
たとえ一時的なものでも構わぬから、
その場さえしのげれば、それでいい。
 
内容云々などはどうでもよいから、
とにかく売れればいい。
 
今日のこの瞬間が面白ければ、それでよし。
 
どうか私を見てください。

どうかウチの商品を買ってください。

あなただけに、ご用意しました。
今だけのチャンスです。
 
世の中、どこを見ても、どこに耳を向けても、
うるさすぎる。
 
頼むから、私を静かに放っておいておくれ。
 
「もしもし? わたくし、○○の・・・」
──── うるさい。黙れ。                                                    

「あなただけに、今回だけのサービスです。」
──── うるさい。しゃべるな。もう、うんざりしているんだよ。                
 
かちゃかちゃと、小さなコマどもめ。
いっそのこと、そこでじっとしていろ。
そして、黙っているがいい。
 
ゆっくり急ぐ自分に、
小うるさい小さなコマは、必要ないのだ。
 
もっと、ゆっくりやろうではないか。
ただし、たゆまずに。
 
ウサギにならずに。
チョット ココデ ヒトヤスミ をしないで。
 
カメになろう。
地の上をはいつくばるのではなく、
どっしりと踏みしめて、ゆっくり急いで歩こう。
 
──── 大きなコマを回すための心のデトックス(解毒)が、                    
何よりも大切で、また、必要な時代じゃないのかな。

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 「デジタル君」は「虫食い問題」?

1月 23rd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

久しぶりに大型電器店に足を運ぶと真空管アンプのコーナーが設けられていました。
知人から「真空管アンプの音を聞いたらハマッてしまうよ」と
何度となく聞いてはいましたが、
ボクが中学生の頃はアンプだけでなくてテレビにも真空管が使われていましたから、
いつ頃それらの機器から真空管がなくなったのか定かではないものの、
随分とご無沙汰している音であることに違いはありません。

もっとも、スピーカーがとんでもないチープ(安っぽい)なものだったので、
その機器の本質は分かりませんでしたが、
それでから、これをとっておきのスピーカーで聞いた日には、
確実に魂を奪われてしまうでしょう。

そういう意味では、現代っ子の多くは真空管のアンプもの音も知らないし、
本来の楽器の音すら知らず、デジタル処理され、
やたらと高音域を強調された音が「音」
あるいは「音楽」だと思わされている現状に、ちょっとかわいそうな気がします。

 「音がデジタルになろうとも、実際にそれを聞く人間の耳は、
  どこまで行ってもアナログなんだからね。」

実は、「ニンテンドウDS」と
「DS Study」を導入しようかと思っていたのですが、
この文章を書いていて、その導入を止めようと決めました。

コマーシャルで「DS Study」をちらっと見ただけですが、
あれはまさに「虫食い問題」のオンパレードです。

「虫食い問題」も高域レベルのものになると、
それはそれで教材としては使えますが、
ごく一般化されたレベルにしないと商品、
特に玩具としては売れないでしょうし、
何でもかんでも「簡単操作」を売りにしないと
振り向いてはくれないところまで社会全体の認識レベルが下がっていますから、
おそらく塾では使い物にならないと思ったことが導入を中止した第1の理由です。

第2の理由は勘違いが起きるかもしれないからです。
問題集につきものの「虫食い問題」は、
空白部分に適語や適切な数式を素早く当てはめていくだけのもので、
確かに素早くなるのはいいことですが、
それは単にその問題に慣れて器用になっただけなのに、
それを「学力があがった」と勘違いしてもらっては困ります。

その証拠に、ちょっと出題パターンを変えると
たちまちにして解けなくなってしまうのは、
単に当てはめるだけという一種類の出題方法のうち、
たったひとつのものができただけで「自分の勉強は完璧だ」と
勘違いしている自分に、
別の方法で出題された問題を目の当たりにして初めて気づくからです。

別に「DS」を含む「デジタル君」を全面否定しているわけではありませんし、
ご家庭で「DS Study」をして楽しんでくださることには大賛成です。
家庭版の「平成教育委員会」が手軽にできるわけですから、
それはそれでコミュニケーション・ツールとしては最高の部類に入る機器でしょう。

前号で、こんなボクでも一時的に、ほんの短い期間ではあっても
「Sony PSⅡ」を買ってゲームをしたことがあると申しましたが、
すぐに飽きてしまい、本体を蹴飛ばして(本当に2回蹴飛ばしました)
冷めてしまいました。

その理由は先がすぐに見えてしまうことと、
どうも企業の思惑にまんまと丸め込まれていくようにしか
見えなかったからということも書いた記憶がありますが、
本当の理由は、自分でゲームを作る方が断然楽しいと思ったからです。

誰かが作ったものを解き明かすのも楽しいですが、
それよりも自分で作った方が数段おもしろい。

そういった人たちが電子ゲームを開発しつづけていると思うと、
そっちの方がわくわくしてきて、
ゲームを前にして同じパターンを繰り返しさせられている自分がイヤになったのです。

本当に飽きるのが早かったですよ。
だって2日で飽きてしまったのですから。
とはいうものの、ボクにはゲームを作る力なんてないのですけれど。

デジタルは所詮デジタル。
感心はしても感動はしません。
木製パズルを解いているときの方が感慨深いのは、
たった4つのパーツ(「the T」の場合)であるにもかかわらず、
それぞれのパーツの概念を変えないと解くことができないからです。

確かに、これ自体も誰かが考えて作ったものですが、
実は、添付されている組み合わせ以外にも広がる可能性が残されているようなのです。
実際に遊んでみた結果ですから、間違いありません。

こういう感覚はデジタル・ゲームで
───たった2日間しかしていないけれど───遊んだときにはなかったものです。  
やっぱりアナログの方が断然おもしろい!

デジタル・ゲームは確かにバラエティーに富んでいて、
動きもあり臨場感もあって迫力満点です。
でも、ひとつのパーツ(物事)の概念を変えるという、
いわゆる「ねじれの思考作業」をさせてくれるツールとしては
あまりにもお粗末です。
中にはそういう思考作業のできるものもありますが、残念ながら少ない。
なぜなら、そういう小難しいものは売れにくいからです。
何でもかんでもワン・タッチ。
学力低下の要因は何も官僚さんたちの失敗ばかりにあらず。

既成概念───「~しかできない」「~にしか使えない」                          
「~なんて、できっこない」「~に決まっている」といったような考え方、
あるいは何の根拠もなく世間一般の常識として
いつの間にか定着してしまっている考え方───をひっくり返す作業は              
文章を書くことでもあるのです。
それは、文章を書くという作業が言葉の大パズルだからです。

国語力低下に対して懸命に取り組んでいる人がいます。
かく言う私もそのひとり。
やれ漢字練習、やれ音読、やれ読解力養成云々かんぬんで、
題材や教材を探し、なければそれぞれで作るという日々の努力の中で、
意外にも一見すると縁遠いようなものが、
学力低下・国語力低下という「灯台」の脚もとにあるような気して、
今でも木製パズルで遊んでいるとき、「もしかしたら・・・」
という気がしてならないのボクなのです。

そして、国語力低下の更なる要因には、
言葉のひとつひとつの重みがなくなってきたことにあります。
現在の日本の出版業界での「常識」に、
「文学小説は売れない」というのがあります。

それに対していちばん売れるのはタレント本です。
「○○魂」とか「□□□□□中学生」とかいった類の、
どうせ半年かそこらで売れなくなってしまうか、
話題になっている最中から早くも
古本として市中に出回る運命にある書籍です。

資源の無駄使いです。

「電○男」という一世を風靡したネット上の小説が書籍化された作品を、
もしあなたが買った人のひとりとして、ご自宅の本棚にありますか? 
たとえ本棚にあったとしても、もう一度読み返すことはありますか? 
たった1年前に話題になった書籍なのですが、皆さんの記憶に深く刻まれていますか? 

更に、1年前に人気があったテレビ番組を思い出すことはできますか?

「おバカ・キャラ」などという言葉が平然と公共の電波に乗せられ、
お茶の間に入ってきます。
そのときにおもしろければそれでよし。それでいいのですか?

地球上を駆けめぐるあらゆる電波は、
すべて宇宙空間にも出て行っていると言ったのは、
今は亡き科学者カール・セーガンですが、まさにその通りなのです。

某社の缶コーヒーのコマーシャルではありませんが、
実は、人間が気づかぬうちに、宇宙人が遠の昔に様子見にやって来て、
そのあまりの「おバカ」振りに辟易した結果、
「人類という奇妙な生き物は・・・」という判定を下し、
「宇宙連合」なるものからの除外を決定しているとしたら、これは大変なことです。

それが、
地球の科学者が躍起になって探しても
地球外生物を見つけられないでいる原因でないことを祈りたいものです。

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「概念を変える」という頭脳動作が言語力に直結するのではないか。

1月 23rd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

~算数や数学の学習が必要である理由がみえてくる~

次に「話す力」ですが、これは数学力に直結していると申し上げると、
意外に感じられるかもしれません。
しかし、確かに直結しています。
それは数学的思考の本質を見抜くことが出来れば、
すぐさまご理解いただけると思います。

「理数系が得意な人は頭のいい人」は俗説です。
なぜなら、単に理数的な思考が好きなだけという
究極のマニアのような考え方しか持っていない人々も多くいるからです。

彼らとさきほどの「点取り虫」との大差はありません。

計算は、
今していることを的確に認識する力と予測力を養うためには恰好の練習材料です。
例えば1746が27で割り切れるかどうかを考えてみましょう。

もし「194」が「192」だとしたら
「1+9+2=12・・・・・・12は3の倍数」で3で割り切ることができます。
ところが「194÷3=○・・・2」となり、
「2÷3=0.666666・・・」となるので、
小数部分を含めた範囲でも割り切ることはできません。
ですから、1746は27では割り切れないということがわかります。

かなり難しい話になりましたね。
「数式が1行増えるごとに書籍の売り上げが1桁落ちる」とは
アメリカの出版業界の常識だと聞いたことがありますが、
ここで読むのをおやめにならぬよう、皆様にお願いします。

さて、この難しい思考作業ですが、これを一瞬でできたら、
さぞや計算は楽になることでしょう。
実は、これが洞察力です。

ただし、1746が27で割り切れるか否かを
瞬時に見分けることができるようになるためには、
数式に相当な量でいじめ抜かれていないとできませんので、
こういう作業はその道のプロフェッショナルに任せましょう。

ただ、話す力とは何かという問いに対して答を出さねばならないので、続けます。

友人や子どもさんから何か尋ねられたとき、
あるいは、見知らぬ人に道を尋ねられたとき、
分かりやすく伝える力が必要です。これが話す力です。

この話す力とは、一般的には「筋道を立てて相手に伝える力」のことですから、
「○□駅に行くには、どのようにして行けばいいですか?」という問いに対して、
「あっち」と、それらしき方向を漠然と指さしているようでは
お話になりません。

そのときには即座に論理立てて相手に伝えなければならないわけですが、
例えば、その駅まであなたが毎日通い慣れているにしても、
いざ説明するとなると難しいものです。

この論理的に伝えるという作業は、
子どもたちは数式という形にし、
特に中学2年生から3年生という期間には図形や数式使うことで
証明問題を解くという練習を通して、論理立てて伝える力を養わせているのです。

このような思考力の訓練を重ねることで、
話す力が話し合う力となり、更には論じ合う力になっていきます。
算数や数学とは、
そういうコンセプトのもとで開発され発展してきた西欧の学問なのです。

日本がこの学問を本格的に取り入れたのは江戸時代になってからで、
そういう意味では、
西欧に一歩出遅れたのかもしれず、
日本人が論理的に話し合う(議論しあう)力が不足していると
欧米人から指摘されることは、あながち否定できません。

最後に書く力です。
「自分の想いを人に伝え得る文章を書くこと」ができる力です。

日頃、携帯電話やコンピュータを使ってやりとりしている電子メールが
文章だと勘違いしている人も少なくありませんが、
あれは全部しゃべり言葉で、電話でおしゃべりをする内容を
単に文字に置き換えているだけです。

ですから、いざ葉書や手紙を書く段になると、
まず書き始めに悩まれる方も多いのではと思われます。
頭の中ではメールを送るような気軽な気持ちで書けばいいと考えているのに、
一向に言葉が出てこないのは、葉書や手紙は「書き言葉」であって
「しゃべり言葉」ではないということに、
書く段階になって初めて気づくからです。

そして、この時点でやっと、
「何か気の利いたかっこいい書き始めはできないものか」という
「考える作業」をしはじめるのです。

このように、「話す、読む、書くの」順に難易度が上がっていくのは、
書くという行為が、ゼロから自力で構築していかねばならない作業が絡むことで、
最も高等な思考をわが身に要求することになるからです。

そうなると、誰かが組み上げたものを繙き批評するのは簡単ですが、
いざ自らで組み上ねばならないわけですから、
今度は立場が逆転し、容易ならざる作業となるのです。

木製パズルで遊び始めると、
この「ゼロから組み上げる」という動作が
頭の中でおこなわれているのではないかと思われる事象が
私の頭の中で起きていることに気づいたとき、
それと同時に、文章を書くことに直結しているという直感がはたらきました。

今の子どもたちを見ていると、
文章の抜けたところに適語や適切な数式などを当てはめるという、
いわゆる「虫食い問題」を解くのは得意なようですが、
いざ白紙に、「今しがた、あなたが解いた問題を、
どのようにして解いたのか、そっくりそのまま書いてごらん。」とボクが言ったとき、
満足に書くことのできる人は残念ながら大変少ないですね。

さて、もう一方のルービック・キューブですが、
これは完全に予測力を養うツールです。

達人は頭の中でルービック・キューブを
CG(コンピュータ・グラフィック)のように動かすことができるそうですから、
すごいものです。

ただし、攻略本を隅から隅まで覚えて解いている人には、
それらをパターン化するまで覚えるという労力には頭を下げますが、
達人と認めるには少々無理があるように思えます。

その代わりに、そのようなことに労力を使える時間と意志力があるのなら、
もっと別の所に使ってくださいなと申し上げることにしましょう。

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「学力」とは何か?

1月 23rd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

ボクは想像力と同意だと思っています。
つまり、知識力・予測力・洞察力の総合力が想像力であり、
それが学力であるということです。

記憶力と知識力は相乗関係にあるといえます。
それは、あらかじめある程度知っていることに関する新しい事柄には
比較的覚えやすいと感じ記憶期間も長くなるのに対して、
知っている事柄が全くない状態で新しいことを記憶するためには
何度も練習しなければならず、
少なからず覚えにくいという感覚にとらわれるからです。

そのようにして記憶するための作業の後に「知る」ための作業となり、知識となる。

そのように考えると、記憶力を上げれば知識力も上がり、
知識力を上げるとますます記憶力があがるという、
いわゆる相乗効果が生まれることになるはずです。

この作業が「勉強」なのです。

その次に開花するのが予測力。
予測するためには「勉強」を通じて体験を重ねなければならないのです。
体験を重ねる作業が「勉強」であり、
その体験から自らで気づいてゆくことが「学習」なのです。

そして、更なる次のステージとして洞察力があなたを待っています。

洞察力とは物事の本質を見抜く力のことですから、
「勉強」の段階で冷や汗を流しているようでは到底身につかぬ力であることは、
すぐにお分かりいただけるでしょう。

そして、この本質を見抜く作業のことを「研究」といいます。
ですから、「○△研究所」という看板を掲げたからには、
本質を見抜くための作業をたゆまずに続けていなければなりません。

ところが、一般的には、「学力」とは「学ぶ力」とか「理解力」という
狭い範囲でしか考えられていないという現状があります。

そして、このことがいかに危機なことであるかということにも
気づいていない人が多いのです。これは由々しきことです。
なぜなら、「学力が高い」=「成績がいい」=「頭のよい子」という
構図が何の根拠もなくできてしまっているからです。

確かに努力をしている姿には高く賞賛するべきです。
「勉強」と「学習」という段階ですら「自分は頭が悪い」と言っては
まんまと逃げ出そうとする人々が多い中で、
ひたすら切磋琢磨してきた人だからこそ、
そこまで到達できているわけですから。

しかし、それでもボクが更に厳しい目で見るのにはワケがあります。
それは「テスト慣れ」さえしてしまえば、テストの点数なんて勝手に上がっていくからです。

つまり、テストの点数が高いのは単なる器用さの結果かもしれないということです。

ですから、単なる「点取り虫」なのか、
本当に学問に真摯に取り組んでいるのかを見極める必要があるのです。

その最良の方法が文章を書かせること。
「点取り虫」は目的が高得点をとることですから、
学問に対する深い考えなんぞはないので、
読む人を深く納得させるような文章は書けません。

塾で「ここ出るぞ! 覚えておけよ!」とか何とか言われて、
ワケも考えずに覚えているだけのレベルでは、
自分の想いを人に伝え得る文章を書くことは、できるはずもないからです。

国語力には大きく分けて3つあります。読む力・話す力・書く力です。

「読む力」が最もたやすくつけることが出来る理由は、
そこに創造性の存在が比較的少ないからです。
誰かが作り上げたのを読むことで書き手の意図を読みとる作業に過ぎないのです
(ただし、読み手の意図をくみ取り、納得し、あるいは感動し、
 己が知識、己が心の糧とすることは大変重要なことですから、
 ここでは頭脳のはたらきという視点でのみ考えることとします。
 誤解のなきようにお願いします)。

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「概念を変える」という頭脳動作が言語力に直結するのではないか。

1月 23rd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

「the T」で20通りの形を組み上げることが出来ます。
パーツはたった4つ。

すべてがシルエットで表現され、箱へ戻すときの組み合わせさえも
問題の一例になっているものの、この例のみ答があります。

ところが、「デビル・パズル」にいたっては101通りの組み合わせ例があり、
箱へ戻すときの組み合わせにも答がつけられていません。

箱から出したが最後、そう簡単には戻せないのです。
ボクの塾の優秀なスタッフも
「先生、どうしましょう~。戻せないー!」と嘆いていましたから、
まさに「デビル」です。

それが「ユークリッド・パズル」なると、
小さな直角三角形が2つ、大きな直角三角形が2つ、
台形が2つ、そして正方形が1つの合計7つのパーツしかなくて、
それなのに101通りの組み合わせが可能だというのですから、
もっとスゴイ。

とはいえ、
こちらはパーツの形が単純なので、さすがに箱に戻すのは簡単です。

そして、シルエットが記載されている紙の最後には、必ずこのように書かれています。

   ●解答について
     パズルは自分で解いてみてこそ、価値あるもの。
    ぜひパズルを解く苦しみをじっくりと楽しんでくだ
    さい。でも頭は悪くなくても、根気も根性もなく、
    意地も名誉も捨てたい方は、必ずいます。そんな方
    は、氏名、パズル名を明記して、80円切手を同封
    の上、下記までお送りください。解答例をお送りし
    ます。

う~ん、このように書かれると、悔しいではありませんか。
だって、こちらにも少しは意地があるってもんです(笑)。

さて、同じように頭をいじめるための道具でありながら、
木製パズルにはルービック・キューブにはないものがあります。
それは前頭前野(ぜんとうぜんや・いわゆるおでこの辺り)だと思われるところで
体験したからです。

結論から申します。
木製パズルに関わっているときと文章を書いているときがほぼ同じであることです。

ボクが文章を書き始めると数時間は書いていることはご周知の通りですが、
その作業が済んだ直後は、
頭、特に前の部分(おでこ)が重くて疲れたような感覚にとらわれます。

あるいは、文章を書いているさなかに時折起こる、
何か糸のようなもので頭の前の部分を何者かによってたぐり寄せられ、
キューッと軽くしぼられるような感覚。

これが、木製パズルで遊んでいるときにも起きたのです。

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意外なものが意外なヒントになることもある

1月 23rd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

ルービック・キューブなんて序の口。

デカミンクスにピラミンクス、スキューブにロンポス・ピラミッド。
その中でもいちばん驚かされたのはルービック・キューブの進化です。

ボクの記憶が「2×2」のタイプで止まっていたこともあるのですが、
なんと、「5×5」のタイプまであるのですね。
その名もプロフェッサーキューブ。

43,252,003,274,489,856,000通りの組み合わせがあり、
その中のたった1つが元に戻せる確率なのだそうで、
こういうのをきっと「天文学的数値」というのでしょう。

あっぱれエルノー・ルービック教授!

さて、このルービック・キューブや、
その他にも木製パズルもあるのですが、
それで遊んでいたら、ある大きな気づきにいたりました。

前号では、電子仕掛けのおもちゃで遊んでいるときと
ルービック・キューブや木製パズルのようなおもちゃで遊んでいるとき、
いわゆる、デジタル玩具で遊んでいるときとアナログ玩具で遊んでいるときとでは、
目の動きが大きく異なっているということを申しましたが、
どうもそれだけではないようです。

「パズル」は「困らせる」という意味の英語で、
商品のコンセプトや特性から、そのまま商品名になってしまったものです。

う~ん、ボクは苦手です。
ジグソー・パズルなんて、
わずか300ピースのものですら解決するのに6時間以上にわたって
唸り続けねばなりませんし、1000ピース以上となると「一生もの」でしょう。

現に完成させた記憶はありませんから。
知り合いの画材店オーナーにそのことを話すと半ばあきれて、
 「そんなんだったら、ウチに持っておいでよ。
  スタッフと一緒に1日で完成させてあげるから」
と言われてしまいました。

300ピースならまだしも1000ピースとなると、
大抵は枠の部分から出来上がっていくので、
その状態を保ったままどのようにして仕舞っておくのかということで、
結構頭が痛いわけで、
表面積自体が油断できない大きさなので尚更です。

おまけに、ボクの場合、
枠ができる辺りからが戦意喪失の序曲が鳴り始めるので、タチが悪い。

土台パズルが苦手なはずなのに、
たまに気が向いては性懲りもなく買ってきて、
一念発起して組み始めるものの、
やはり同じような場所で「気まぐれ劇場」がファンファーレと共に開幕し、
仕舞い場所にどうにか収めはしたものの、
また気まぐれを起こしては新しいのを買ってくるという愚行を繰り返えし、
結局、組みかけの状態で、ひどいものになると3年間放置され、
挙げ句にほこりまみれの状態のままで闇に葬られるといった有り様です。

画材店オーナーいわく、
 「だったら、買わなきゃいいのに。もったいないよ」。

そうなんですよね。買わなきゃいいのです。
ところが、あの手この手で新しくて素敵な図柄の商品が出されているのを見るにつけ、
ついつい手が出てしまって・・・。

「一切合切持っといでよ。ウチで組んであげるから」とはオーナーの言ですが、
ボクにだって五分くらいの意地はあるとばかり、
「オーナー、パズルのことより、ちゃんと仕事をしようよ」という
苦し紛れの一矢を放ってはウヤムヤにしてしまうという体たらく・・・。

いけませんねぇ。

これが今までのボクです。
ですから、ボクが学生のころに一世を風靡した
「2×2」タイプのルービック・キューブですら、
興味を示したことはありませんでした。

ところが、この年になって(3月で47歳になります)何を血迷ったのか、
インターネット・サイトから時折届く新製品紹介のメールを開けたのです。

 「へぇ~、まだこんなのが生き残っていたんだ・・・。」と思ったのが
運の尽き(今回は「縁」にしたいと思っているのですけれど・・・)。

懐かしさもあって、ついついサイトの奥深くまで入って行って、
もうびっくりしました。

この手のメールに対しては大抵の場合は「ゴミ箱」行き。
中味を見ることなんてあまりありません。
ところが、たまたま見てしまったのです。

随分な進化に驚きの連続です。
それに色が断然きれいになっています。
「3×3」タイプの存在すら知らなかった50歳手前のオッサンが、
いつの間にか封印してしまったはずの30年前の記憶をよみがえらせて、
驚きが新鮮さに変わった瞬間に箍(たが)がはずれてしまいました。

 「今のこの年齢だったらちょっとは根気も強くなったから、
  もしかしたら出来るかも・・・」

と思い、「2×2」と「3×3」の2タイプを所望。

今、巷では「ニンテンドウDS」なるものが大流行していて、
かの旺文社までも「Ds Study」シリーズを続々と世に出していますが、
どうもこういうたぐいの「デジタル君」の末路が見えてしまうのか、
15000円の本体と数千円のソフトをいくつか手にしても、
結局はかつての「Sony PSⅡ」と同じ感じがするので、
この手のものに熱心な人からは数歩ばかり退いたところに立って、
横目で様子見を決め込んでいた時点で「2×2」「3×3」を手にしたわけです。

第一印象は、アナログ版「DS」かアナログ版「脳トレ」。
数日間こだわって───  この手のものが苦手なボクしてみれば奇跡的です────  
ジグソー・パズルとは違う感覚を持ちました。

もちろん「デジタル君」とはかけ離れた何か奥深いものがありそうな予感。
つまり、数学的な法則性のようなものを感じたわけです。

前々からそういったものの裏付けで開発されていることは知っていましたが、
それはあくまでも風評の丸呑み。

ところが、実際に手にしてみて数日間こだわった後に感じたのは、
受け売り的なものではなく実感です。
もしかしたら、人に教えるという職業をしていなければ気づかなかったであろう、
経験に基づいた確かなものでした。

こうなるともう止まりません。
インターネット・サイトでパズルを探しまくるボク。

ふと温泉旅館で体験した木製パズルはないのかと探してみると、
あるんですよね、
それも数種類。

幼児対象のものまで含めると大変な数になるくらいあるのです。
しかもそれらのほとんどが在庫切れで入荷待ちの状態です。
おそらく「ニンテンドウDS」の影響なのでしょうけれど、
こちらの方はどこなく密やかな感じがして、
知る人ぞ知る世界であることは間違いありません。

それにしても、現場を知らぬ官僚さんがしでかした教育改革の大失敗が、
こういった社会現象を起こしている皮肉を目の当たりにすると、
国は民が動かしているのだという歴史の根幹を感じます。

そして更に数日後、木製パズルがやってきました。

「匹見パズルコレクション・ザ・ティー」となっています。
島根県は西中国山地国定公園内・匹見峡付近にある
「ウッドペッカー木工組合」で作られたものです。

箱の中に、組み合わせ例が掲載された紙と共に、
旅情をそそるような匹見峡の案内書も入っていました(行ってみたい!)。

更に数日後にも「デビル・パズル」と「ユークリッド・パズル」(いずれも木製)が
続々と届けられ、解読開始です。

 うんうん。この感覚・・・!
 そうそう。こんな感じ、こんな感じ・・・!

かつて温泉旅館で、温泉大好きのボクが温泉そっちのけで
奇跡的にハマッた木製パズルが「the T(ザ・ティー)」だったのですが、
解読開始と共に、忘れかけていた感覚がよみがえってきました。

こりゃオモシロイ。ちょっとはボクの頭も良くなりそうな予感・・・。

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本当に自力で啓発できる人は2%しかいない

1月 22nd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

自己責任という言葉が世で盛んに言われるようになってから久しいですが、
それと同時に自己啓発という概念も巷に広がり、
そのためのセミナーを聞くチャンスや商品が
多数見受けられるようになっています。

例えば「ビリー・ブートキャンプ」(例の有名な「ビリーさん」です)、
「脳トレ」、「DS Study」などは自己啓発グッズの代表です。
その他にもルービック・キューブやロンポス・ピラミッドなども
その部類になります。

ところが、セミナーに接し、数多ある商品を手にしたところで、
それが自己啓発するところまで到達し、
その行動を今なお長く続けることの出来る人となると何人になるのでしょうか。

あるデータによると、セミナーに足を運び傾聴し、
それをもとにして実践しつづけることのできる人となると、
わずか2%なのだそうです。

あるいは、大手塾のデータですが、
子どもの第一志望校に合格できる確率ですら、
子どもたち自らの強い意志で全員が通塾しているという仮定のもとであっても
30%であるといわれています。

中学入学と共にわが子を通塾させ、
夏期・冬期・春期講習などにも欠かさず参加させ、
中学卒業までにクルマ1台分に及ぶ先行投資をして、
その結果がわずか30%だとは何事だと
お怒りになる方もいらっしゃることでしょうけれど、
紛れもない事実なのです。

しかし、自己啓発という名目でセミナーに接し、
巷にあふれる商品を手にしては
2%の中に入ることの出来ない人が大勢いるというなかでの30%は、
実は驚異的な数値なのです。

さて、新年早々難しい話が続いて申し訳ありませんが、
「一年の計」ということで、あえて逆転発想としてとらえていただけたら幸いです。

今回の「Capa!」はちょっと苦しんで書いています。
それは、例の「宇宙人クリオネ君」がなかなか降りてきてくれなかったからで、
実を言いますと、書き始め数ページの段階で2回失敗しています。

私にとって年に2回ほどしかない
「文章が出てこない」状態に陥りかけていたからです。
しかし、もう大丈夫。

「自己啓発」という言葉にまで到達できたので、あとは水を得た魚です。
とはいえ、そんなに長くならぬようには努力します。
確かに、前回のような80ページはねぇ・・・。
組み上げる作業も大変ですから(大汗)。

「自己啓発」と書きながら、
このコーナーのタイトルには「自力で啓発できる・・・」と書いて、
何か違うような気がしたのです。

「本当に自力で・・・2%しかいない」というタイトルが、
このコーナーの文章をある程度書き進んだ段階で、
突然「自力で」という言葉が脳裏に浮上したのです。
それが「自己啓発」と「自力啓発」です。

以前に形式知と暗黙知について述べたことがあるのですが、
覚えてくださっているでしょうか。

形式知とは、人が作ったもの、あるいは作り上げてきた結果で、
暗黙知とは、人があるものを作り上げるまでの道のりです。

つまり、前者は形として目に見えるものすべてであり、
後者は自分以外には決して見えない、いわゆる努力の道のりです。

先日、NHK(だったと思います。ケーブルTVだったかも)で、
カリスマ美容師にインタビューをする場面がありました。

その中で、
「ひとり一人のお客様に対する髪型のイメージはいつひらめくのですか?」
という質問があって、その答は、
見る人や聞く人によっては大変奇妙とも思えるようなものでしたが、
私には、それがどういことなのかがすぐに分かりました。

 「お客様の髪に手が触れた瞬間に、
  そのお客様の髪型のイメージが出来上がります。
  事前の準備は必要ありません。」

 「あなたは文章の発想をどのようにして得ているのですか?」
 「本を読んでいて、音楽を聴いていて、テレビを見ていて、
  人とお話をしていて、ありとあらゆる生活のための活動をしていて、
  ある時突然、ひらめくのです。
  題材はそれだけで充分です。あとは書き始めた瞬間に文字が滑り出し、
  書きながら構成を決めてゆくだけです。下書きは必要ありません。
  余程の大作でもない限り。」

これは、私のことです。

お客様の髪型のイメージや文章の発想がどこからやって来るのかは、
説明できないのです。

そのような発想で作られた光景や作品が、
それを見、あるいは読む人にとっては形式知となります。
この人にとって、カリスマ美容師や私の発想の裏付けは全く分かりません。
しかし、その人の脳───顕在意識(現在の自分が何を考え、                      
どのような言動をしているのかを
はっきりと認識している領域ではたらく意識)───に刺激を与えられるため、      
そのことが自己啓発を受けたという意識になり、
驚きや納得、あるいは反論という意識動作、いわゆる感動になるのです。

もっとわかりやすく述べるなら、
「ああ、今日はいい話を聞いたなぁ。」とか、
「よし、自分もやってみるか!」と思うことです。

この自己啓発を促された人数は、
セミナーを聞いたり商品を手にしたりした人の、
おそらく8割近くに及ぶでしょう。

ところが、しばらくすると反論が芽生え、その頭をもたげてくるのです。

 「あの人はそのように言っているけれど、
  それはあの人だから出来たんだ。自分には出来ないよ。」

だから自己啓発を促されても自力啓発につながる人は、
あるいはつなげることの出来る人は2%になってしまうのです。

自己啓発を促す物事は形式知で、
それを手にした瞬間から限りなくゼロになってゆくものです。
それに対して、とにかく何でもいいから善かれと思われることは
片っ端から行動してみて、失敗を重ねることで積み上げた小さな成功が自力で、
つまり己の内なる力によって発想が生まれ、己が啓発につながる。これが暗黙知です。

これを世の人々は「経験」とか「成り立ち」と言っているのです。
こちらは無限大です。「長年の経験」とは、

このようにしか表現することができないことから生まれた「理由」です。
その「経験」というたった2文字の中には、
筆舌では尽くせない暗黙知が含まれています。

ただし、この絶望的とも言えるような2%という数字ですが、
対象となる人数が増えれば、驚くべき数になることは確かです。

100人なら2人ですが、
100万人なら2万人。
1億人なら200万人です。

ただし、この2%とは、何かひとつの事柄に対して生じた確率ですから、
そのような事例はひとつやふたつではありません。
それこそ数千、数万、いや、数百万に及ぶかもしれません。

それぞれに2%存在するとすれば、
自力啓発、つまり独自の発想でもって行動するという人の数は膨大になるから、
絶望的どころか、むしろちょうどよい数値なのです。

そして、その中のどこかに己が存在箇所を見つけることが出来た人は、
きっと幸せなのです。

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意識が変わると、出会う人も変わるか?

1月 22nd, 2008 by どくたぁ・えぞひぐま

● 人は同じ精神レベルの人とつき合おうとするものです

朱に交われば赤くなる。
あまり良い例えには使われないようです。

人の心は純粋無垢であればあるほど、出会う人、
つき合う人によってどのような色にでも染まりやすく、
特に悪しき魂にはいとも容易に染められてしまい、
一旦そうされてしまったら、
なかなか元には戻れないことをいう場合が多いからです。

もっとも、人の心はいつまでも無垢のままではいられません。
それでなくとも人の心は移ろいやすいのですから。

その移ろいやすさゆえに裏切りが生じるのは、
最終的には己がかわいいからにほかならず、
これは人としての性ではなく、
人もまた動物であるがゆえの性であるからです。

今から掲げる例は、かつてボクの塾に実在した子どもさんのお話です。
仮にS君としましょう。
ちょっと小説風に書いてみました。

Sは同学年の塾生全員から笑われた。
 「お前、絶対に変だ。」
Sには理由が分からなかった。

ある日突然、
自分が到達しているよりもはるか高レベルにある高校へ行きたいと言い出した。

中学3年生の11月中頃のことである。
なんでも、友人に誘われて、その私立高校の説明会に行き、
校長先生の話に感激したのがその主たる理由だった。

 「世の中にはあまりにもニセモノが多すぎる・・・。」

校長の第一声を聞いた瞬間、Sは驚かざるを得なかった。

 (いつか、どこかで同じようなことを聞いたことがある。
  はて、いつ、どこで・・・?)

彼の脳裏での過去をたどる作業と併行して、
校長の話は予定通りにたゆまずに進められていく。

不思議なことに、その話が進むほどに
Sの不確かで断片的なはずの記憶が次々とよみがえり、
いつの間にか確実で一貫した記憶へと変わっていることに気づかずにはいられず、
そのことが更にSの心をかき立てた。
やがて、その記憶の連鎖は私の存在へとたどり着いたのだそうだ。

 「何で先生の話と、今日の校長先生との話が合ったんでしょうね?」
 「それはね、ボクがその学校の卒業生だからです。
  校長先生、そんなことおっしゃっていたんだ・・・。」

説明会での昂奮がまだ冷めぬ状態で塾にやってきたときのSの心が、
ここで明確に決定づけられることとなった。

ただ、問題は山積している。偏差値が49しかないS。
それも11月中旬に一念発起したとはいえ、
たった2か月半しか期間がない条件で、
偏差値を62以上に引き上げねばならないのだから。

Sの「苦行」は、私から偏差値62以上である
受験生の英語の思考レベルをまざまざと見せつけられるところから始まった。

英語の長文問題を解く上でSにとっては命綱であった和英辞書を、
私から取り上げられた。

40行の英文を3分で読み大意をつかむ作業をさせられた。
1週間では到底こなせぬ量で、
しかもSの思考レベルではかなり無理のある課題を2回繰り返せという命令が、
私から下される。
ミスを2回繰り返した瞬間に、私から檄が飛ばされる。
このようなことが連日、日付が変わる頃まで繰り返された。

私はSを試していた。
私の無理難題の連続をどこまで受け入れられるか、
そしてどこで音を上げるか。

結局、Sは、音を上げなかった。それどころか、
私が次々と発した命令を無理難題とはとらえずに、
当然のことのようにさえ思っていたのだそうだ。

久々に骨太の生徒に出会った。
おそらく10年に1人。
どれだけ振り払おうとも食らいついてくる。
そのときの痛みは最高に心地よかった。
教師冥利に尽きる子とは、きっとこういうような子をいうのだろう。
私にそう思わせるには充分すぎた。

年明け早々にSが発した言葉に、
精神の急速な成長を遂げていることを思わせた。

 「先生、やっぱり、オレ、おかしかったんですね。
  今になったら笑われた理由が分かります。」

 当時(といってもわずか数か月前のことなのだけれど)Sは、
その日一日が楽しければそれでいいのだという感覚で生きていたそうだ。
それゆえに、その中学校では「やんちゃ」グループに属していた。

勉強のことなんぞはどこ吹く風。
公園のホームレスの人たちに「グループ」で徒党を組んでは
いらぬことをし、相手を怒らせては一目散に逃げるという
低次元の行為を繰り返していた。

私の塾生に笑われたのは、まさにこの話をSがした直後だった。
理由は分からないが
世間一般の常識からはかなり逸脱しているのではないかという
ほのかな己への疑いが芽生えた瞬間でもあったらしく、
それからずっとSの心の奥底でひっかかっていたのだ。

 「今でもその子たちと遊んでいるの?」
 「いいえ。今は自分よりも、もっと勉強の出来る人と話すようになっています。」
 「そうだろうね。いやなに、簡単なこと。 
  君の話し方も、話す内容も、この2か月でずいぶんと変わったからね。
  おそらく、当時の連中との交流はもうないのだろうとは思っていたよ。」
 「え? そんなこと、すぐに分かるんですか?」
 「そんな節穴教師じゃないよ。」

私が吹っ掛ける無理難題を期限内に解決するために
必死の想いで課題を解くものの、
自力では解決できないところに何度もぶち当たる。

しかし私には教えを請うことはできない。
いや、Sが尋ねてくれば私は迷わずに教えるつもりで
手薬煉(てぐすね)を引いて待っていた。

だが、一度たりとも尋ねてきたことがないのは、
Sにも意地があったのだろう。
それとともに、
Sの直線的な性格が彼に自ずと
私の所へは尋ねては行けないと思わせたということが、
後日になって明らかとなるのだが、
それにしても、どこに解決の糸口を見いだしていたのだろうか。

 「オレより賢いのが周囲に10人くらいいますから、
  その連中に教えてもらっていました。」

この日々がSを変えた。いや、正しくは、Sが変わったから
話す相手、つき合う相手が変わったのだ。
それと共に以前の「やんちゃ」グループとも話をしなくなった。

やがてSの目には過ぎゆく日々を享楽のみにうつつをぬかす連中が
ちっぽけな存在に見え始め、徐々に自然的にではあるが
確実に彼らとの交流はなくなり、
代わって、自分よりも高い学力ステージに立つ者たちが、
Sの仲間になっていった。

Sはそのことで大きく変化する己(おの)が心と
周囲の環境を自らで体感したのである。
それと共に急速に変貌してゆくSを驚愕の目で見る周囲の存在があったに違いない。

そのあからさまな空気の変化はSの変貌速度に拍車をかけ、
誰もが認めざるを得ないステージに立つことになったのである。

聞けば、周囲の10人は学年上位10位を占める者たちであり、
自分はそのグループの最下位にいるのだろうと己で予想していた。

 「これで君も一流になったね。」
 「そうなんですか?」

 Sは、満面の笑みで照れた。

 「先生、S君、合格しますかね?」
 と問うスタッフに、逆に私から尋ねてみた。
 「君なら彼の合格率を何%にする?」
 「五分五分・・・、いや、六四ですか。」
 「ふぅん。ボクは七三かな。」
 「え? そんなにも合格率が高いんですか?」
  「だって、あいつ、迷いがないからね。落ちる顔してないよ。」

本気で頑張った受験生なら、
年が明けた瞬間には次のステージの学生の顔になるものだ。
小学生なら中学生らしくなり、
中学生なら高校生の表情が出てくる。

逆にそのようにならなければ確実に失敗する。
入試とはそういうものだ。

受験生の精神の組み上げ方を試すことなのだ。
その試練は生半可な洗礼には容赦しない。

え~・・・いかがでしたか? 
小説風のタッチで書いたとはいえ、日頃しないことをすると疲れます。はい。

それはともかく、S君は見事に合格しました。
この生徒はある意味では特殊な例かもしれませんが、
10年に1度はこういう子どもさんに出会うものです。
ボクがこの場所で開塾して今年で20年目を迎えるのですが、
毎年少なからずS君には及ばずとも、
語り草になるような子は存在します。

「朱に交われば赤くなる」は本当です。
あなたに最も強い影響を与えているのは友達であり、
あなたもまた友達として相手に与えているのです。

20年も塾を続けていると、
友達によって善くも悪くも変わってゆく子どもさんを
たくさん見ることになります。

「ウチの子、友達づき合いが悪いのかしら?」という
ご相談を親御様からお受けすることも少なくありませんが、
無理に引き離すことはできませんし、
そうしようとすればするほど逆のことが起きてしまいます。

 「何であんな子とウチの子が友達なの?」
 これは、ウチの子があんな子と友達になったばかりに
悪くなったのだと親御様が嘆き悩まれる代表的な例ですが、
私からすれば、いつまでわが子本意でよそ様の子どもさんを
見下げていらっしゃるのですかと申し上げたいくらいです。

なぜなら、人は自分と同格のステージにいる人としかつき合おうとしないからです。
極端な話、享楽の日々をむさぼっている人が、
日本の明日を語る人とつき合いますか? 

なぜなら、第一、話が全くかみ合わないではありませんか。
つき合うということは互いに相手からの何らかの刺激を受けるのです。
その刺激の中味は、大抵の場合、共通事のはずです。

だから話がかみ合い愉快を感じる。
逆にそのように感じない、あるいは不愉快を感じる場合は、
知人の紹介で義理が絡むとしても、1回だけ会ってそれで終わりのはずです。

つまり、人は同じレベルの人とつき合おうとするということなのです。
毎日の挨拶を交わすからといって
おつき合いをしているとは言わないし言えないのと同じく、
人は、毎日の挨拶程度の出会いならいくらでもしているけれど、
そこからの「おつき合い」となると、
同じレベルの人としかしようとしないのが大抵の展開です。

ですから、「なんであんな子と・・・」と
わが子がつき合っている友達に対してお感じになったときは、
実はわが子もまた「あんな子」と同じ精神レベルであるということです。

 「成功を望むなら成功者とつき合いなさい。」
 「学力向上を望むなら、学力向上を目指して頑張っている人とつき合いなさい。」とは、
私が子どもたちに度々言ってきたことです。

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電子仕掛けのおもちゃは、子どもたちの頭をダメにする?

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

最近の携帯電話って、ゲームが内蔵されているんですね。
音もイイですねぇ。コレが「次世代の・・・」っていうものでしょうか。
今や携帯電話は道具ではなく、
子どもたちにとっては限りなくオモチャに近づきつつあって、
本来の目的やそれに応じた機能から遠ざかっているような気がします。

ボクからしたら、今の携帯電話はこういう風にしか見えません。
携帯電話はあくまでも道具です。通信の手段。それで充分。

これ以上書くと悪口になりそうなのでやめますが、
12月3日にボクの塾にやって来たツールを通じて、
ゾッとするくらい感じたことがあります。

手先を動かすオモチャに触れると頭が良くなるといわれています。
コンピュータゲーム、
いわゆるテレビゲーム(ビデオゲーム)のたぐいで、
コントローラーのボタンをピコピコするのではなく、
指先そのものを動かすことのできるツールです。

やって来たのはルービックキューブ。今更?
はい。今だからこそ、「今更」なのです。

同時ではないのですが、ほぼ1時間違いで、
あることを目撃したのです。

新しいツールに真っ先に手を伸ばすのは誰かを見ていたら、予想通りです。
別に子どもたちを実験台にしているのではありません。
こういうツールを探していると、自然と塾生みなさんのお顔が浮かんできます。
「誰が、どんな表情をして熱中するのかなぁ」と思いながら
探しているのは楽しいことです。

何を目撃したのかというと、ルービックキューブをしている生徒の姿と、
携帯電話に内蔵されているゲームをしている生徒の姿なのです。

目の動きです。

ルービックキューブをしている子の目は、一点に集中している。
ルービックキューブから視点が逸(そ)れていない。

片や携帯電話のゲームをしている子の目は、
画面に釘付けになっているとはいうものの、
その画面の範囲内をしょっちゅう動いている。
つまり、視点が一瞬たりとも止まっていない。
言い換えれば、視点が逸れまくっているのです。

ゾッとしたというのは、携帯電話は画面が小さいので、
視線の動きもそれほど大きくありませんが、
これがテレビ画面になったときの子どもの視線の逸れ具合を想像したからです。

それともうひとつ感じたのは、何も携帯電話に内蔵されたゲームだけでなく、
電子機器仕掛けのオモチャは人を攻撃的にさせ、
ルービック・キューブなどのアナログのオモチャは
人を静的な状態にさせるということです。

ボクが目撃したのはほんの一例に過ぎないけれど、
こういうときのボクの直感は正しいことが多い。
この際ですから、電子機器の好き嫌い云々は抜きです。

ルービックキューブのような
アナログのオモチャで指先を動かしているときの子どもの目には頼もしさを感じ、
電子機器をしているときの子どもの目には危険さえ感じさせられるのは、
気のせいではないように思えます。

それと同時に、アナログのオモチャに関心を抱いた子とそうでない子では、
発想の次元が歴然としています。
もちろん、アナログの方が次元が高い。
偏見ではなく、これもゾッとするくらい感じたことです。

電子機器が全部悪いわけではありません。
これでもPS2(Sony社製プレイステーション・2)を持っていたのですよ。
ただし2回遊んだだけで終わり。

マシーン自体が大嫌いなSonyということもあるのですが、
そんなことは大した理由ではありません。
ゲームをしていて先が予測できてしまうのです。
企業の金儲けの思惑に向かって繰り広げられる浅はかなゲーム展開が見え見え。
おまけにPS2自体もこちらの思うように動かないわで・・・。

ボクに2回蹴飛ばされ、あえなく、スタッフの家に里子に出されてしまいました。
そういう意味では、携帯電話のメールも好きになれません。
探し難くて未熟な漢字変換機能はボクをイラつかせるだけです。
何度ボクに投げつけられているか・・・。

単にボクが不器用なだけなのでしょうけれど、携帯電話のメールを使っていらっしゃる方は、みなさん器用ですね。ボクからすれば神業です。
反面、う・ら・や・ま・し・い~・・・!

う~ん、このイライラがいけないんでしょうね。
もしかしたら、電子機器のオモチャで遊んでいるときの子どもたちの心理って、
ボクのイライラと似ているような気がしてなりません。いかがなものでしょう?

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方向転換その後 ③ ~変わった子どもたち・変わらない子どもたち。何が違う?~

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

さて、一方の子どもたちですが、
テストの点数だけで申しますと、最も大きく変わったのは、
やはり中学3年生ですね。

今回の第2学期末考査の結果が出てきていますが、
最もめざましい生徒で、5科目合計が470点近くになりましたし、
そこまでめざましくなくとも、全体としてジリジリと成績が上がってきています。

この辺りはさすがに受験生ですね。
ただ、他学年、特に中学1年生と2年生は少しは変わったのかなと思われますが、
まだ結果に結びついていない人が多いのは、
受験という意識がまだまだ弱いからでしょう。

ところで、集団一斉指導型では見えなかった(見えにくかった)ことが、
個別型にして丸見えになったことがあります。

それは、学習意識が変わった生徒とそうでない生徒の歴然とした違い、
つまり学力が向上した人とそうでない人の違いとその理由です。
実に単純なことですが、絶対にごまかしのきかない厳然たる証拠です。
読んで思い当たるところがあれば、あなたが該当者です。

【伸びていない人(変わらない人)の理由】
① 勉強に対して勝手気ままな人
  本人が希望してこちらが用意したプリントにもかかわらず、
  途中で放り出した人です。

② 勉強をしている振りをした人
  数学を伸ばしたい、英語を伸ばしたい云々・・・の割に、
  こちらが見計らって用意したはずのプリントをしていない。
  勉強をしている振りをするくらいなら、しない方がましです。
  浅はかであさましく、見苦しい行為です。
  要するに、そういう人はずるいだけ。

③ 言い訳の多い人
  「○○先生がきらいだから。」
  そんなもの、理由になりません。

④ 行動のおそい人
  とにかくすぐに始めることができない。
  忘れ物をしたと言って取りに帰っているようではね。
  お話にならない。

今回の「Capa!」の冒頭に掲げた「勉強のできる人になりなさい」の中にある、
【頭】・【頭が固い】・【新しい挑戦】・【新しい学習内容】・【後始末】・
【あとで】・【アドバイス】・【甘さ】・【誤り】・【言い訳】・【命取り】に
該当する部分の多い人です。

これらの該当箇所をゼロにすることはとても困難ですが、
少なくすることなら今すぐにでもできます。

要するに行動力の差です。
行動力の差がそのまま学力差になっている。
個別型にすると、容赦のない結果が出てきます。
実はこれもボクのねらい通り。
シビアな結果が出る分だけ、
その子に対する指導案をもっと具体的に組み上げることができるからです。

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方向転換その後 ② ~(そうじ力)=(人間力)~

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

開設以来19年になりますが、1年間しか勤めなかったスタッフの方が少なくて、
大抵の場合、3年間から5年間は続けてくれます。
これはボクにとってとても嬉しいことです。
それに、子どもたちにとっても指導面で安定するということですから、
歓迎すべきことではあると思います。

だた、マンネリ化する傾向もいなめない。
ですから、それを解決してまわるのが塾長であるボクの仕事というわけです。
その解決策として最も着手しやすいのが、掃除と模様替えであるというわけです。

別にスタッフを自分の意のままに動かしてやろうというような下心は、
全くありません。
これは、スタッフに限らず、子どもたちにも言えることで、
土台、人は自分の意のままには動かないものだし、動かせるものでもないからです。

人の行動、特に子どもたちの行動をよく観察していると見えてくるのは、
環境の影響を受けやすいということです。

スタッフのやる気を起こさせると子どもたちも変わるというのが通説のようですが、
ボクはむしろ逆だと考えます。
子どもたちにやる気を起こさせるとスタッフも変わる。
どうもこっちの方ではないかと思うのです。

どちらにせよ、両方が良い方向へ変わっていくのが最良なのですから、
その鍵を握っているのは塾長であるボクなのです。
つまり、ボク自身を変えるのに、
いちばん手っ取り早い方法が掃除と模様替えなのです。

ボクだって人間です。みなさんと同じ。
ときには「今日は仕事をしたくないなぁ~・・・」と思うこともあります。
そういうときの精神状態はとても不安定です。
掃除は、そういった不安定な要素を心の中からたたき出すための方法としては、
最強です。

ボクが寺の境内の凛(りん)とした空気が好きなのは、まさにここにあります。
いつ訪れても変わらないで存在する境内を見たとき、
その状態を保とうとする人の強い意志力を感じます。それが好きなのです。

 「(掃除が行き届いている)=(そこに存在する人の意志力)」

それでも気(気運)が停滞することがある。
だから模様替えをする。
本棚の本を数か月に1度は移動させるだけでも
気(気運)が良い方向へ動くというのも、決して極端な話ではないのです。

ある部屋をすっかり模様替えをしたとします。
気分一新です。子どもたちもスタッフも、ボクもです。
でも、この新たな気分は模様替えを完了させた瞬間を最高点として、
限りなくゼロへと下降していきます。

そして、新鮮さがゼロになった状態が「安定」なのです。
つまり、何ら目新しくなくなった状態、その光景がごく日常となった状態です。
それはそれで重要です。そうでないと落ち着きがなくなりますから。

ただ、この「安定」は「停滞」というリスクもはらんでいる。
つまり気運が動きにくくなり、やがては動かなくなってしまうということです。

こうなるとゼロではなく、マイナスの力がはたらきはじめます。
その打開策として掃除があり、
こまめに置物を買えたり置き場所を変えたりといった、
いわゆるマイナー・チェンジがあるわけです。
しかし、それにも限界がある。
そういうときに、機の熟するのを見計らって
大がかりな模様替え(大改装)をすると、一発解決と相成ります。

学習空間の気運が停滞すると、
子どもたちの学習意識もスタッフの指導意識も停滞する。
現に、大きな指導法の方向転換をして最も変わったのはボクであり、
続いて子どもたちでありスタッフでした。

もっとも、
それまでの集団一斉指導の際のスタッフにやる気がなかったのかといえば、
そのようなことは決してありませんでしたが、
大きく方向転換した直後に、
スタッフにどのような心境の変化が現れたのかを尋ねてみました。

第一声を聞いて驚いたのはボクの方でした。
「停滞感がなくなりましたね。」
彼らは感じてくれていたのですね。
うんうん、手前味噌ながら、ウチのスタッフは優秀だぞ。

「それじゃあ、ナンでボクに言ってくれなかったの?」となりそうですが、
彼らにしても上手く言葉で表せなかったのでしょう。
「何となくではあるが、それでも何かが変だ」ということは分かるが、
それが何であるかというと、具体的には分からない。こういう状態です。

その停滞感の発信元は、紛れもなく、ボクの心の中です。
ボクが発していた強烈なマイナスのオーラが原因です。
分かれば早い。要するに、ボクが変わればいいのです。
「あとで」なんて言っていられない。
3日で解決させました。例の「大改装狂詩曲」ですね。
その後はゆっくりとした速度で、変化しつづけています。

教室内にプチ・ギャラリーを作りました。
階段下のデッド・スペース(と、ボクが勝手にずっと思っていた場所)に
ウォール・スクロール(タペストリー)を掛けたのがきっかけで生まれた発想です。

集団一斉指導のときと異なって、個別対応にしたことで、
ボクも動き回るようになりました。
というのは、今までの集団一斉指導の状態だと、
ボクはいつも教えるための席、つまりホワイトボードを背にした形でいるために、
生徒から見た教室の雰囲気をとらえにくかったのですが、
個別対応にして動き回るようになってからは、
指導者としての決まった席がなくなったのです。

その副産物として、あらゆる方向から教室を見ることができるようになり、
そうすることで、子どもたちの視線により近づけるようになりました。

このプチ・ギャラリーの発想も、
生徒を指導している合間に階段下のウォール・スクロールを何気なくながめていて、
あるとき突然、これを中心にした構図が生まれたのです。

こういう空間利用は一見すると
学習に何の関係があるのかと思いがち(思われがち)なのですが、
結構、こういう所に学習意欲を引き出す空気を発する不思議な力が宿っているものです。
その証拠に、生徒やスタッフからは好評です。

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方向転換その後 ① 

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

10月から個別対応型の塾になって、早いもので2か月を経ました。
今のところ、ボクの予測通りになっています。
ただ、大きく変わった人とそうでない人、あるいは、ジリジリと変わってきている人など、
個人差がありますので、全般的な話としてお読みください。

まず、スタッフの意識が変わりました。
他塾批判になるといけませんので、ごく一般的な例として、
ボクが親御様から時折伺うことを挙げますと、
「個別」という看板を掲げる塾では、
スタッフが同一年内にころころと変わるところも少なくないようです。

スタッフとして迎え入れる第一の条件として、
子どもが好きであることと、余程の理由がない限り1年間は辞めないことです。
また、ファミリーレストランやコンビニのレジ係と同じような考えでいる人は、
スタッフとして迎え入れるのを端(はな)から断っています。

誤解なきようにお願いしたいのは、
ファミリーレストランやコンビニのレジ係も大切な接客業ですから、
決して見下しているのではありません。
これらの業種と塾講師の決定的な違いは、
身代わりができないということを述べるための例として挙げました。

○○塾の◇◇先生という子どもたちの意識は、
それが学生アルバイトであろうと、専任講師、果ては塾長であろうとも同じですが、
お客さんにとって、コンビニ□□店のレジ係をしている▽▽さん
という意識はゼロに近い(ゼロとはいいません)けれど、
□□店の店長さんとなると意識は全く異なってきます。

つまり、経営者、あるいはその店の管理者という立場とアルバイトという立場が、
決して同等ではないけれど、塾ではかなり接近しているのです。
ですから、特にボクの教え子を講師として迎えるときに念を押しているのは、
「今までは○○君(○○さん)。これからは○○先生。
その違いをよく自覚してくださいな。」ということです
(勿論、ボクの教え子ではない学生さんにも同じことを言っています)。

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勉強が出来る人になりなさい②~「い」の段~

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

【言い訳】
 適当にごまかすことです。できない理由を述べることです。自己防衛のことです。
 自分ができないとか能力がないことを人に知らしめるだけだということに
 気づいていない人のすることです。進歩の敵です。

【勢い】
 実力を遙かに超えた試験問題や課題でも、できると本気で信じている人は、意外にで きてしまうことがある。

【行きづまる】
 あなたの今までの方法の終着地点です。
 それと同時に、新しい方法が生まれる出発点でもあります。

【意識革命】
 新しい体験をするとすぐに起きます。行動力のある人は、だから進歩する。
 しかし、すぐに起きる代わりにゼロになるのも早い。
 行動力のない人には不要のものです。

【忙しい】
 目先のことばかりをする人の言うこと。ヒマな人ほど忙しいと言います。
 ちょっと長いスタンスで計画を練れば、言わなくてもいいようになる。

【痛みを知る】
 知ると、想像力が培われ、人を思いやることができるようになります。
 想像力は予想力・予測力に直結します。
 想像力の豊かな人に、勉強ができない人はいません。

【言ってはいけない】
 ① 俺(私)は知らない! 関係ない!
 ② 聞いてません!
 ③ それは無理! できません!
 ④ 死ね! アホ! バカ! ボケ! ウザい! キショい! キモい!
 全部、攻撃のための言葉です。
 自分の身を護る言葉のように子どもたちは使っていますが、それはちがいます。

【命取り】
 自分自身の鷹揚さの中にあります。
 鷹揚とは、何ものもおそれずに悠然としていることです。
 生活の上では大切なときもありますが、勉強に関しては命取りです。
 「そのうち、なんとかなるさ。」
 なんともならないときが、突然やってきます。

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勉強が出来る人になりなさい②~「あ」の段~

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

【挨拶(あいさつ)】
 挨拶をきっちりできる人になりなさい。
 人と人のコミュニケーションをよくするための、最も基本的で重要なことです。

【明るい】
 人が集まります。物がきれいに見えます。
 きれいな所で悪い発想は生まれません。

【悪影響から身を遠ざける】
 やる気のない人、行動を起こさない人と一緒にいると、
 その波動があなたにも伝わってきます。マイナスの力です。
 プラスの力はその力に等しくしか伝わらないが、
 マイナスの力は、その5倍になって伝わってしまいます。

【遊ぶ】
 「働く」・「勉強する」と同じ次元です。「さぼり」とは全く違うものです。
 目一杯遊ぶことのできる人は、仕事も勉強も目一杯できる人です。

【温かい環境を作りなさい】
 温かい心をもった人には魅力があります。
 人はそういう人の言ったことは素直に従おうとし、
 そういう人と接することで、周囲の人々も温かくなります。
 学習環境も同じです。あなたの学習環境は温かい雰囲気がしますか?
【頭】
 容量は誰でも同じです。
 使えば使うほどよくなります。
 よくないのは、使う回数が不足しているからです。

【頭がいい】
 学校の勉強ができるとか、成績がいいだけではありません。
 物事を素早くかつ正しくつかみ取ることができる力、高い状況判断力、
 そして、豊かな感性をもっていることをいいます。

【頭が悪い】
 状況判断が鈍く、すぐに行動を起こせないことです。

【頭が固い】
 自分の都合のいい理屈にこり固まって、その中から抜け出せないでいることです。

【頭が柔らかい】
 物事の正否の判断が素早くでき、
 その場に応じて自分の考え方を正しい方向へ変化させられることです。

【新しい挑戦】
最初は慣れたことの3倍の時間がかかります。繰り返せば繰り返すだけ時間が短くなる。慣れるまで繰り返すことのできる人は10人に1人もいません。だから大差が生まれる。
【新しい学習内容】
 とにかく、やってみないと、どこができて、どこができないかが分からない。
 やる前に「学校(塾)でやっていない」と文句を並べない。
 自分の力で調べ、自分の力で解くための工夫をする。
 それでも間違えたら、正否ばかりにこだわるのではなく、その理由を追究する。
 そのときに正しい方法が分からなくなったら、先生に質問しなさい。
 指導者はそのときのために、ずっと、あなたのそばにいる人のことです。

【後始末】
 きちんとできれば一人前です。
 後始末をいい加減に済ませる人に、勉強ができる人はいません。

【あとで】
 実行しないということです。油断することです。
 そして期日直前になって焦っても、うまくできません。
 勉強ができない人ほど繰り返します。

【アドバイス】
 あなたが心の底から納得せずに、その気になっていないときは、
 いくらアドバイスをしても無駄です。

【甘さ】
 自分の弱さの証明です。遊びも勉強も中途半端です。痛い目に遭わないと治らない。【誤り】
 大きな誤りは誰にでも分かる。小さな誤りを見逃さず、やり過ごさないことです。
 小さな誤りは、あなたが見逃し、やり過ごした分だけ、あとになって相応の傷口となって 開きます。

【ありがとう】
 あなただけではなく、周囲の人の心も豊かにさせる、最良・最強のツールです。
 口だけでなく、体でもその喜びを表しましょう。

【安易】
 過去をあらためることなく過ごすことです。
 結局、自分が最も望まなかった結果を迎えることになります。

【安心】
 手抜きの出発点です。

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勉強が出来る人になりなさい①

12月 17th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

先日 amazon のサイトを気の赴くままに見ていたら、
ちょっとおもしろそうな書籍に出会いました。

秋も深まる頃になると、ボクの発想の泉をかき立ててくれて、
しかも意識まで変えてくれるものに出会います。毎年です。

どうもボクの「意識のサイクル」は11月から12月の間に切り替わるようです。
というのは、ニュースレターを発刊して4年になりますが、
10月になると溜めに溜めたものを吐き出して、
11月から12月にかけて生まれ変わるというサイクルができているということが、
過去の発刊物を見直して分かったことだからです。

ただ、みなさまを丸ごと巻き込んで「吐き出す」
などという表現は如何なものかと思われますが、
一応は理性の範囲内でのそれということで、お許しを願えれば幸いです。

さて、その出会った書籍ですが、
『仕事ができる人の心得』(小山昇 著)といいます。

幹部の数人にひとりは元暴走族だったという、
およそ世間一般の常識では考えられないような会社の社長が、
著者の小山氏です。

設立当初、
社員のとんでもない行いに近隣から疎(うと)んじられた会社が、
今や数々の賞を受賞する優良企業になり、
不況といわれて長いこのご時世下で、
毎年着実に売り上げを伸ばし続けています。

不況は関係ないというのが小山氏の言。
読んで納得。
読みながら、勉強に転用できるものがいっぱいあるのに気づいたワタシ。

この「もの書き」野郎が、こんな刺激いっぱいの本を手にして、
そのまま自分の心にしまい込んでおくなんて、
そんなことは、できっこないのです。

ボクの頭のいたる所にある発想のハッチは全開状態。
「宇宙人クリオネ」君も降臨しまくり。

今回は「あ」と「い」から始まる言葉を並べてみました。
題して、「勉強ができる人になりなさい」。
読んでドキッとさせられ、思わずニンマリ。
そして納得させられること請け合いです。

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個別指導の新兵器登場

11月 10th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

現在、小学生1年生の子どもさんが最年少です。
特に小学3年生以下の問題集では、
塾専用教材の開発は遅れすぎていてお話にならない状態なので、
ボク自身が本屋さんを歩き回って、自分の足で集めています。

やはり何でもそうですが、自分のこの目で見、確かめて、
納得しないといけません。
このあたりが、ボクが「ゲルマン人よりもゲルマン的」と言われる所以(ゆえん)です。

子どもたちの教材を選ぶときは、大抵の場合は直感です。
特に書籍を選ぶときの直感は鋭くて、
書籍店の本棚から取り出して開いた瞬間に判断できるくらいです。

その辺りは一応プロの端くれですから、当たり前ですけれど、
実は、この「目(選定眼)」はピアノ選びで鍛えられました。

ピアノの前に座って弾き始めた瞬間に、
調律や鍵盤の整備具合、そのピアノの持つ特性、
それに反響板がその役目をきっちりと果たしていて、
楽器全体に響きが行き渡っているかがすべて分かります。

更に、音を聞いただけで、鍵盤の重いピアノか軽いピアノか判断でき、
しかも、調律師に鍵盤の重さを調節してもらうときも、
音の出方で判断して決める方が早いくらいです。

ですから、この耳でCDを聞くので、音の響きの特性から、
「このピアノはニューヨーク・スタインウェイで、
このCDはハンブルグ・スタインウェイ、
そしてこのCDで使っているピアノはベーゼンドルファー(オーストリア)。
あ、これはヤマハだ。」という具合に分かってしまいます。

それは丁度、ワインのソムリエが、
そのワインを一口含んだだけで、
原材料が作られた国や地方まで分かるのと同じです。

みなさんには、基本的には1科目に1冊、
塾から指定された問題集を持っていただいていますが、
特に「新小学問題集」と「新中学問題集」は共に「標準編」でも難易度が高く、
通用しない子どもさんも大勢いますから、

そういうレベルの子どもさんに、
あるいは、これらの問題集でも役不足なくらいの
高いレベルの子どもさんに合った教材をそろえる必要性が、
個別対応に変わって即座に現れてきました。

問題集も年々進化していますから、
わずか数年前の問題集が(極端な場合はわずか2年前でも!)
通用しなくなるばかりか、
殊に近年は、通用しなくなるまでの期間が短くなってきていて、
こまめに本屋さんに足を運んでいないと、
最新鋭の情報からすぐにでも取り残されてしまいます。
この情報に関しても、塾仲間が大変頼りになる存在であることは言うまでもありません。

彼(か)の聖徳太子によれば、「恩」には4つあるそうです。
ひとつ目は「先祖の恩」、
ふたつ目は「父母の恩」、
みっつ目は「世間の恩」、
そして最後に「仏の恩」です。
最近になって、ちょっと分かってきました。
それだけボクも年を重ねたということなのでしょう。

そういう精神状態になったからでしょうか。
今までだと絶対に花が育たない場所があったのに、
今年になってからは、そのような場所に置いても、
花がすくすくと育つようになってきたのです。
不思議なものですね。
 
世の中の 人は何んとも 言わば言え
我が為する事 我のみぞ知る

これは坂本竜馬が16歳のときに詠んだといわれている和歌です。
血気盛んですね。
この精神も大切です。
でも、何よりも大切なのは、バランスです。

「こんなに楽しそうに仕事をしている人も、珍しいね。」と、
方々の人から言われます。

ボクにとっては自然体なんですけれどね。
これだけの文章だって、書きたいから書いているのです。
でも、しっかりとした仕事の一部なのですよ、これでも・・・。

   (当サイトに掲載されている記事、画像の無断複製および転載を禁じます。)

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毎週土曜日は、「読書の日」?

11月 10th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

それにしても、漫画の単行本が増えましたねぇ。
『ドラゴンボール』・『花より男子(だんご)』・
『NARUTO』・『結界師』・『バビル2世』・
『鋼の錬金術師』・『その名は101』・
『BANANA FISH』・『鉄人28号』・『宇宙少年ソラン』・
『お~い竜馬』・『幽遊白書』・『ホイッスル!』と、
いつの間にか13作品に及ぶようになってしまいました。

「先生、『こちら葛飾区亀有公園前派出所(コチ・カメ)』は置かないの?」と
言われましたが、
あれって200巻を優に超えて、現在も躍進中でしょ? 
漫画喫茶じゃあるまいし。

これからは漫画ではなくて物語などを置こうかと思い、
手始めに『ダレン・シャン』13巻を(全巻)大人買いでそろえました。(笑)

さっそく学習の合間に読み始めて、
ナンと5日間で1冊を読んでしまった強者も現れています。(おお~!)
聞くところによれば、『ハリー・ポッター』よりも出来がいいそうで、
大人でもハマッてしまいそうですョ。

これをもっと進化させて、
土曜日を、自習だけではなく読書の日として開放しようと考えています。

児童文学や文豪の作品を置くのもいいですね。
あと、歴史上の偉人の伝記とかもいいなぁ・・・。
せっかく大改装したのですから、そこまで発展させたいものです。

ところで、誤解のなきようにお願いしたいのですが、
これらの書籍の貸し出しは一切していません。
特に漫画本は貸し出し厳禁で、スタッフでさえも同じです、

また、当然のことですが、
子どもたちが学習している横でスタッフが読むことは御法度ものです。
更に、子どもたちが学習の合間に読む際には、
ボクかスタッフに必ず断り、
何時何分まで読むのかを決めさせてからしか許可を与えられませんし、
その時間が長すぎる場合はあらかじめ削られてしまいます。
あくまでも合間に読むのです。没頭はよくありません。

こういうようなケジメや躾という生涯に及ぶことを、あえて教えるのではなく、
何気ないやり取りの中で、子どもたちが学習していってくれるのが理想的です。
そういう意味でも「毎週土曜日は読書の日」を定着させたいですね。
「活字離れが進んで云々」と世を嘆き批判する前に、まず行動。
こちらが態度で示さないと、子どもたちもついては来ません。

  (当サイトに掲載されている記事、画像の無断複製および転載を禁じます。)

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自分で選べるのは科目・来るべき曜日・時間数だけ

11月 10th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

個別対応とフリー・ラーニングの決定的な違いのひとつは前述の通りですが、
もうひとつ大きな違いがあります。
学習内容を含めた生徒の管理方法です。

フリーラーニングの際は塾に来る日時やするべき内容を
本人に一任しています(これも改良するべきところはたくさんあります)。

ところが、個別対応の場合は、
あらかじめ塾に来る日時のみが一任されているだけで、
するべき内容は一任されておらず、
また、日時も「時間帯記入表」に明記し提出した上で、
自分が書いたとおり自己責任において、
その日時通りに来なければいけないようにしています。

左上の写真は、生徒それぞれの、
いわゆる個人ファイルで、
その中には左下の「学習記録表」が保存されています。

塾にやってきてI.D.カードで入室チェックを済ませたら、
この個人ファイルと新しい「学習記録表」を持って、
自分の席を確保して・・・という、
子どもたちの一連の動作は前述の通りです。

さらに、あらかじめ各生徒が設定した来塾日時や時間帯を
曜日ごとに全体表してまとめ、
当該日に何らかの理由で遅れたり欠席したときは、
その時間分を必ず当該月(月末のときは翌月)のうちに埋め合わせてもらい、
例えば、1週間に5時間を学習している生徒であれば、
1か月を4週間として、必ず合計20時間になるようにしています。

今までなら、曜日も時間も塾側の決めたことに従っていただき、
何らかの理由で遅れたり欠席した場合は、
抜けた分のアフター・ケアは殆ど為されませんでしたが、
個別対応に方向転換することで
このような授業料の空回りを極力なくするという合理性がまれました。

普段の大抵の場合、ボクは1階南側の部屋にいて、
やってくる生徒ひとり一人をチェックするようにしています。

というのは、中学生がやってくる前に、
小学生を1階南側の部屋で教えているからで、
また、その部屋に個人ファイルを置くことで、
必ずボクの顔を見なければならないようにしているからです。

自分の設定時間に遅れてきた場合は、
ボクから遅れてきた理由を尋ねられる上に、
「○◇分遅れ」とか「時間にルーズだ」という小言も付け加えられます。

そしてその直後に、「遅れてきた分をいつ取り戻すのか?」とボクから尋ねられ、
全体表のその生徒の欄と個人ファイルの「学習記録表」に、
ボクとその生徒との「約束」が記入されます。

それでも、必ず1階南側の部屋にいるとは限らない場合もあるので、
そのときは、後で入室時刻と退室時刻をチェックすればいいようになっています。

というのは、皆さんがI.D.カードをバーコード読みとり機にかざした瞬間に
「ピッ」という音が鳴りますが、
そのとき、親御さんの携帯電話(もしくはお手持ちのコンピュータ)に
入室時刻や退室時刻が送信されると同時に、
塾のコンピュータにも時刻が記録されているからです。

それこそ、日にちや曜日や時間にとどまらず秒まで記録されていて、
即座にプリント・アウトをすることも可能ですし、
この時間はインターネットからの表示なので、まずもって狂いがありません。

ただ、この記録はあくまでもデジタルなので、
「学習記録表」によってアナログ面からも生徒を管理できるシステムになっていて、
その生徒の動きを追跡できるようにしています。

このような厳然たる規則や規定のもとで子どもたちが動いているという点でも、
フリー・ラーニングとは根本的に異なっているということを、
みなさんにご理解いただけるのではと思っています。

今後、フリー・ラーニングの際もこのシステムを導入していく予定です。
そうすることで、「フリー」と称して
自分に都合のいいようにねじ曲げて使おうとする生徒にとって、
勉強から逃げ出すことが出来ないように強化できるはずです。

更に、「フリー・ラーニング個人予定表」を作り、それを提出しない生徒や、
たとえ提出してもその通り履行しない生徒には
フリー・ラーニングは受けさせず、
強制的にこちらから時間を指定することも考えています。
特に、現・中学2年生にはそうでもしない限り、
勉強に対する意識の低さと甘さを払拭できませんね。
 
いま、「現・中学2年生」と名指しに近いようなことを書きましたが、
これはボクの塾だけではなく、全国的な様相のようです。

自習室を開放されている九州の塾長先生も京都の塾長先生も、
「今年の中1と中2はどうにもならん」と嘆いていらっしゃいます。

学習に対する意識の低さは、
この中学1年生か中学2年生がどん底だろうというのが、
どこの塾長先生にも共通する見解です。

原因は、二言目には「教育改革の失敗」といいますが、
それだけではないような気がします。

無責任きわまりない日本国の行政なんぞは、この際、蚊帳の外でよろしい。
問題はボクたちの中にもあるのです。

なぜなら、その要因のひとつが、
大人たちの、子どもたちへの管理の目が甘くなったことにあるのですから。

放っておくと、どのような子でも、楽な方へと進むのです。
そこを大人がしっかりと管理するべきなのに、その管理を学校に押しつけ、
あるいは塾に外注して子育てを放棄しているような大人が増えすぎたことにこそ
問題があるのです。
その結果がモンスター・ペアレントなる階層を生み出すことになったわけですから。

モンスター・ペアレントの子どもは、
十中八九、モンスター・チャイルドです。
反面教師なんてことは95%の確率であり得ない。

カエルの子は、所詮カエルです。
そういう子どもたちには申し訳ないけれど、
ボクの塾に入って来て欲しくはありません。
そのためにフィルターをしっかりしておかないと、
ちょっと油断したらとんでもないことになりますからね。

 (当サイトに掲載されている記事、画像の無断複製および転載を禁じます。)

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「自由」の本当の意味をご存じですか?

11月 10th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

中学3年生に、「民主主義」の真意を知っているかを尋ねたことがあります。
実はボクも「21世紀の教育を考える塾の会」の主宰のセミナーで、
主宰から伺って初めて知ったのです。

「ある一定の期間、国民から選挙などの正当な方法で選び出された代表者に、
独裁を任せること」

ボクは若い頃はバッハやモーツァルト、それにベートーヴェンといった、
いわゆる古典音楽が苦手でした。
それは、厳格な規則があって「自由」に演奏できず、
とにかく堅苦しかったからです。

そのボクにとって、
クラッシックとジャズが融合したシュンフォニック・ジャズという分野が
魅力的に見え、ガーシュウィンに没頭したものです。

そのおかげで、彼の名作「ラプソディ・イン・ブルー」は
今でも十八番(おはこ)です
(最近はあまりピアノを弾いていないので、かなりな練習は必要でしょうけれど)。

ところが、自由すぎるゆえの無言の堅苦しさを感じるようになったのは
30歳を過ぎた頃でした。

なぜなら、正しい知識を積み重ね、
あらゆる厳格な規則を踏襲した上での「自由」と、
それらを全く知らないか、
あるいは、少しくらい知っているというレベルでの「自由」とがあることに
気づいたからです。

同じ「自由」でも次元が全く違う。
自分が求めていた「自由」の薄っぺらさによって、
どこまでが「自由」なのか、
どこまでの「自由」を受け入れるべきなのかが分からなくなってきたました。
それが「自由すぎるゆえの無言の堅苦しさ」でした。

その時点で、最も厳格とされているバッハに戻り、
その規則の中に底知れぬ「自由」が隠されていたことに痛感させられました。

「先生、バッハって、こんなにも自由だったんですね。」

そう言うボクに、師匠はこのように言って下さいました。

「やっぱり戻ってきたね。ただ、もう少し時間がかかるかなと
思っていたけれど。30歳前半でバッハに戻ってくることの出来る人は
少ないですからね。」

厳格な何らかの規則や規定があるからこそ、
その中での最大限に許されることがある。
それが本当の「自由」なのです。

勿論、その規則や規定の中に独裁性や弾圧性は皆無です。
人が人として円滑円満に社会を営んできた中で、
ずっと守り続けられてきた最良の規則や規定が存在するからこそ
得ることの出来る「自由」があるのです。

オヤジ様が「自由には責任がある」と口癖のように言っていました。
ボクが中学1年生の頃です。
その頃は「口うるさいオッサンだな」と思っていましたけれど、今なら分かる。

この「責任」こそが、
「人が人として円滑円満に社会を営んできた中で、
ずっと守り続けられてきた最良の規則や規定」なのですから。

そういう精神に則(のっと)って考えた場合、
個別対応で時間が自由になったとしても、厳然たる規定は必要になってきます。

フリー・ラーニングではここまで厳格なものは不要ですが、
通常の場合は別物にしなければ、
下手をすれば全く規制のないものになってしまいます。

これが個別対応に潜む大きなリスクでもあるのです。
その規定を定めるのに大変苦心しました。

 (当サイトに掲載されている記事、画像の無断複製および転載を禁じます。)

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こういう輩(やから)は、ボクの塾にはふさわしくありません

11月 10th, 2007 by どくたぁ・えぞひぐま

何年か前に、
新規生徒募集に際して「1か月間の無料体験入塾付き」をしたことがありますが、
今はしていません。

「無料」という文言の後ろに何かが隠されているようで、
かえって怖いというお声を聞くようになったからと、
「無料」目当ての連中を退けたかったから、おこなわなくなったのです。

1か月の「無料」という権利を上手に使っていただきたいという
こちらの趣旨を、平気